役者人生、泣き笑い

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9月13日(土)
西田敏行『役者人生、泣き笑い』(河出書房新社)読了。

俳優・西田敏行の自伝。
2016年、70歳の時、頚椎亜脱臼と胆嚢炎の手術で入院した際に書き下ろした作品。

西田敏行は1947年、福島県郡山市生まれ。
郡山貯金局に勤める今井泉と紀惠の間に生まれたが、幼い時に父を亡くす。
母は美容師をして息子を育てたが、西田が5歳の時に同じ美容師の男性と再婚し、西田は母の姉・西田美代に引き取られた。
西田家の祖先は薩摩藩士で、養父・西田辰治は元・陸軍軍人で、戦後は郡山市役所に定年まで勤めた。
家族は郡山市の香久山神社の社務所に住んでいた。
両親に連れられて映画館へ通い、小学生の頃から映画俳優を志す。
標準語を習得するため、明治大学付属中野高校へ進学。
1966年、明治大学農学部入学したが、登校したのは1日だけで、日本演技アカデミー(後の桐朋短大演劇科)に入る。
1967年、アカデミー時代の友人たちと劇団「シアター67」を結成するが一年で解散。
1968年、青年座俳優養成所に入所。
1970年、座員に昇格し、7月公演『情痴』で初舞台を踏む。
1971年、『写楽考』で主役に抜擢される。
1976年、テレビドラマ『いごこち満点』『三男三女婿一匹』で注目を集め、森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う若手俳優と高い評価を得る。
1977年、『特捜最前線』
1978年、『西遊記』
1980年、『池中玄太80キロ』『サンキュー先生』
1981年、『おんな太閤記』
1981年、『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ主題歌)が大ヒットし、NHK紅白歌合戦に出演。
1986年、映画『植村直己物語』
1988年、映画『釣りバカ日誌』。その後22年にわたってシリーズ22本に出演。
1994年、東宝ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢され、その後7年にわたって出演。
2001年、朝日放送テレビ『探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に起用され、約19年間にわたってレギュラー出演。
2003年、心筋梗塞のため倒れ緊急入院。青年座公演『乳房』を降板。
2004年、青年座を退団し、元・青年座スタッフで、長年マネージャーを務めていた小林保男が設立したオフィスコバックに移籍。
2009年、里見浩太朗の後を受け、日本俳優連合第5代理事長に就任。
2016年、自宅ベッドから転落して首を痛めて入院、「頸椎亜脱臼」と診断される。
2018年、旭日小綬章を受章。福島県が県民栄誉賞を贈ることを発表。
2024年、東京都世田谷区の自宅でベッドで冷たくなっているところを付き人により発見され、死亡が確認された。76歳没。
三船敏郎、渥美清、高倉健、石原裕次郎らは日本を代表する映画俳優だが、日本を代表するテレビ俳優はこの人、西田敏行だろう。
映画や演劇でも活躍したが、やはりホームグラウンドはテレビ。
しかも、50年の間、一度も落ち目になることなく、出演し続けた。
これほど成功した俳優は滅多にいない。
西田は演劇畑出身で、東北地方出身で、紅白歌合戦で司会をつとめ、歌手としても出演したが、これと全く同じ道を辿っているのが大泉洋。
テレビ俳優はイケメンすぎない方がいいのかもしれない。
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